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07.06.16:14 批評-井上瑞貴氏のブログから 1 |
『あるるかん』24、「猫」「壁の音」について井上瑞貴氏が御高評下さった。
http://freezing.blog62.fc2.com/blog-entry-596.html
井上氏は怖い人である。
作品だけで、作品ではなく作者の私を完璧に脱がせていく。
震え上がった。
>猫をひきよせているのは、だから「なにかとてもいいもの」といったものをわたし自身のなかから探しだそうとして
>届かないものは、彼方にあるのではなくわたし自身のなかにある。
>「なにかとてもいいもの」は、わたし自身の「反射」にすぎない。そこには、はたして「なにかとてもいいもの」があるのだろうか。届きえない限り、手に入らない限りそれは真である。あるいは彼女はそのことを知っていて、わざと手に入れないのであり、そのとき接近とは、手に入れてしまう恐怖から逃げているという逃避を意味した。
告白します!
まったくもってその通り。
「わざと手に入れない」「手に入れてしまう恐怖から逃げて」、もうここで私は思わず後ろを振り返ってしまった。
「壁の音」について
>ほんとうは醜いもの、汚れたものを書きたがっているのではないかと思う。
これもまったくそう。
>そして<モノ>の正体の醜悪さにたじろぎ、そこから後退りする。
そう。私はそこから歩き出しはしたけれど何ひとつ解決をしなかった。
本当に醜いもの。その醜さの前に在ることそのものが信じられないくらいに。
でも結局動かないではいられなかった。
それが後退りでも…。
>この詩では、その醜い壁に音楽を与えてしまう。そのときの逃避の姿態の美しさ、それが彼女を詩人にしている。
詩は道具にも防具にも、そして武器にもなるんだ。
それにしても、井上さん、やさしい。
http://freezing.blog62.fc2.com/blog-entry-596.html
井上氏は怖い人である。
作品だけで、作品ではなく作者の私を完璧に脱がせていく。
震え上がった。
>猫をひきよせているのは、だから「なにかとてもいいもの」といったものをわたし自身のなかから探しだそうとして
>届かないものは、彼方にあるのではなくわたし自身のなかにある。
>「なにかとてもいいもの」は、わたし自身の「反射」にすぎない。そこには、はたして「なにかとてもいいもの」があるのだろうか。届きえない限り、手に入らない限りそれは真である。あるいは彼女はそのことを知っていて、わざと手に入れないのであり、そのとき接近とは、手に入れてしまう恐怖から逃げているという逃避を意味した。
告白します!
まったくもってその通り。
「わざと手に入れない」「手に入れてしまう恐怖から逃げて」、もうここで私は思わず後ろを振り返ってしまった。
「壁の音」について
>ほんとうは醜いもの、汚れたものを書きたがっているのではないかと思う。
これもまったくそう。
>そして<モノ>の正体の醜悪さにたじろぎ、そこから後退りする。
そう。私はそこから歩き出しはしたけれど何ひとつ解決をしなかった。
本当に醜いもの。その醜さの前に在ることそのものが信じられないくらいに。
でも結局動かないではいられなかった。
それが後退りでも…。
>この詩では、その醜い壁に音楽を与えてしまう。そのときの逃避の姿態の美しさ、それが彼女を詩人にしている。
詩は道具にも防具にも、そして武器にもなるんだ。
それにしても、井上さん、やさしい。
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07.06.15:39 批評-藤維夫氏のブログから |
「あるるかん」24について藤維夫氏がブログで御高評下さった。
http://plaza.rakuten.co.jp/yamagi79/diary/200904080000/
拙作の「壁の音」について
>どんどん壊したりするもの、立ちはだかることばの隠喩としてもある。
>サルトルから現代の今にまでつづいている、危機的な状況の隠喩がどうしても考えられることだ
今になって思えば、渡辺玄英氏もおっしゃったように、私にとってこの当時の「壁」とは、立ちはだかるものであり、そしてどんどん壊さなければならぬものだった。
批評は時として、作者自身にさえ気づけぬことを知らせてくれるものだと驚かされる。
また、「水盤」5について
http://plaza.rakuten.co.jp/yamagi79/diary/200905280000/
>「おびただしい鳥」は第1連では原爆投下のイメージにとらわれて、くらい予感の象徴が鳥だった。
>第2連は聖書の世界を想像し再生するヨブをかってにかさねて、暗黒の時の流れに見立てたりした。
>時代の局面を思わせる異和と葛藤の世界は憂鬱な世界だった。
暗黒一色の作品を書いてしまった。
そういう意味でいえば、まだ「壁の音」に到達できない、見知らぬ町をさまよい途方にくれている状態。
ここが当時の底辺だったのだろうか…。
作品を書くということは、私の場合、私の立ち位置を記しているようなものかもしれない。
http://plaza.rakuten.co.jp/yamagi79/diary/200904080000/
拙作の「壁の音」について
>どんどん壊したりするもの、立ちはだかることばの隠喩としてもある。
>サルトルから現代の今にまでつづいている、危機的な状況の隠喩がどうしても考えられることだ
今になって思えば、渡辺玄英氏もおっしゃったように、私にとってこの当時の「壁」とは、立ちはだかるものであり、そしてどんどん壊さなければならぬものだった。
批評は時として、作者自身にさえ気づけぬことを知らせてくれるものだと驚かされる。
また、「水盤」5について
http://plaza.rakuten.co.jp/yamagi79/diary/200905280000/
>「おびただしい鳥」は第1連では原爆投下のイメージにとらわれて、くらい予感の象徴が鳥だった。
>第2連は聖書の世界を想像し再生するヨブをかってにかさねて、暗黒の時の流れに見立てたりした。
>時代の局面を思わせる異和と葛藤の世界は憂鬱な世界だった。
暗黒一色の作品を書いてしまった。
そういう意味でいえば、まだ「壁の音」に到達できない、見知らぬ町をさまよい途方にくれている状態。
ここが当時の底辺だったのだろうか…。
作品を書くということは、私の場合、私の立ち位置を記しているようなものかもしれない。
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07.05.10:35 批評-西日本新聞 |
『水盤』5号掲載「けなげな春」を6月25日付西日本新聞『西日本詩時評』「日食月食 心の満ち欠け」にて岡田哲也氏より御高評いただきました。
この作品は、愛するが故に、あるいは大切に思うが故に嘘をつく、嘘をつかねばならない人間の哀しみ、可笑しみ、そしてアイロニーを込めて、やや自嘲的に書いたもの。
その作品に、いつもながら岡田氏は温かな御批評を下さいます。これまで幾度か岡田氏から御高評をいただいて感じるのは、丁寧にお読み下さり、そして温かな父のような言葉かけを下さる。本当は良い子でないことも全部お見通しで、頭を撫でて下さるような。その優しさで諭されるような。
この時評の最後に岡田氏が書かれた言葉が強く胸に突き刺さっています。
「この世の光から、そしてこの世の自分から最も遠いのが詩人でしょうか。もちろん、逆もまた真なりなのですが-。」
深いメッセージを自分勝手に受けとめています。
今回の時評、実家のような詩誌『子午線』の吉田美和子さん「位置」と一緒でとても嬉しく、美和子さんの懐かしい笑みの下で、姉と一緒のような安心感を覚えたのでした。
この作品は、愛するが故に、あるいは大切に思うが故に嘘をつく、嘘をつかねばならない人間の哀しみ、可笑しみ、そしてアイロニーを込めて、やや自嘲的に書いたもの。
その作品に、いつもながら岡田氏は温かな御批評を下さいます。これまで幾度か岡田氏から御高評をいただいて感じるのは、丁寧にお読み下さり、そして温かな父のような言葉かけを下さる。本当は良い子でないことも全部お見通しで、頭を撫でて下さるような。その優しさで諭されるような。
この時評の最後に岡田氏が書かれた言葉が強く胸に突き刺さっています。
「この世の光から、そしてこの世の自分から最も遠いのが詩人でしょうか。もちろん、逆もまた真なりなのですが-。」
深いメッセージを自分勝手に受けとめています。
今回の時評、実家のような詩誌『子午線』の吉田美和子さん「位置」と一緒でとても嬉しく、美和子さんの懐かしい笑みの下で、姉と一緒のような安心感を覚えたのでした。
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07.05.09:51 批評-現代詩手帖6月号 |
『あるるかん』24号、「壁の音」が、現代詩手帖6月号詩誌月評、渡辺玄英氏「帰る場所から旅立つために」で御高評いただきました。
『あるるかん』からは久里稔さんの「針」も。
渡辺氏の御批評は、私自身自分で気づいていなかった作品を書いた当時の在りようを知らされるようでした。
私はすでに昨年のあのおぞましい日々から無意識に歩き出していたのだと。
この作品を書いた時にはそうとは気づいていなかったのだけど。
でも確かに現在の自分を見ればそれは明らか。
ここへ辿り着いているのだから。
作品がどうということでなく、この御批評は私の生きようを大きく励まして下さいました。
ひとつの句読点を、とりあえず「これでよし」なのだと。
このまま歩こうという励ましを。
ありがとうございました。
きっと、人は不幸のなかにいつまでも立ち止まってなどいられない。
無意識にも克服しようとする力が与えられている…生き物とはそういうものなのかもしれない。
『あるるかん』からは久里稔さんの「針」も。
渡辺氏の御批評は、私自身自分で気づいていなかった作品を書いた当時の在りようを知らされるようでした。
私はすでに昨年のあのおぞましい日々から無意識に歩き出していたのだと。
この作品を書いた時にはそうとは気づいていなかったのだけど。
でも確かに現在の自分を見ればそれは明らか。
ここへ辿り着いているのだから。
作品がどうということでなく、この御批評は私の生きようを大きく励まして下さいました。
ひとつの句読点を、とりあえず「これでよし」なのだと。
このまま歩こうという励ましを。
ありがとうございました。
きっと、人は不幸のなかにいつまでも立ち止まってなどいられない。
無意識にも克服しようとする力が与えられている…生き物とはそういうものなのかもしれない。
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07.05.08:37 something9 |