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オンディーヌの部屋

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03.29.20:14

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  • 03/29/20:14

07.12.10:30

村上春樹「1Q84」

読み始めて、微かな違和を覚えた。
「春樹、どうしちゃったの?」と…。
様々に言われているように、私も性にまつわる描写の多さにいささか辟易。うんざり。
ただそれはいつもどおり、いやいつも以上にドライ。
官能からは遠い。
まるで試験前に保健体育の教科書を幾度も幾度も読まされているような感覚、あるいは人体模型を詳細に眺め、たどるような。
出てくれば出てくるほど乾いていく。
砂漠の砂のように。
エロスは書かれない。
卑猥とか淫らとか描写のシチュエーションとは逆に、そういうものは全く浮かび上がらない。
そのザラザラ感が、性はもういいからという「うんざり」に繋がっていく。
 
これは、いったいどんな物語?
人間の孤独とか不毛になっていく性とかトラウマや記憶というものや…
「?」を抱きつつ読んでいたのだけど、
最終章に近づくにつれ、そして読み終えたとき、スコンと実に単純で簡単だが
「ああ、これは愛の物語だったのね」とすーっと納まるものがあった。
自然に。
ひとりの人間が存在していく意味にとって愛の持つ力の威力・作用というものを改めて強く感じて。
その愛は、もちろん男女間の愛情に留まらないものだが。理解とか許しとか、そういうものまで広げたものも含めて。
少々くどかったり、盛りすぎという手触りも時々あって、春樹どうしたんだろう…という、もどかしいような違和は終始感じ続けたのだが、もしかしたら春樹は、いつになく熱かったのかもしれない。
とても言いたいことが強くあって、それこそクールで覚めた春樹節を維持できていないのではないか。
何となくこれまでは口にされることのなかった、文壇における春樹自身の私的な感じ方や在り方のようなものもにじみでているようで。
春樹はそういうことが言える位置に現在あることを自分に認めさせることがやっとできたのかもしれないし、それはひとつの自信かもしれない。
もしかしたら春樹自身、何らかのこだわりから解き放たれたのかもしれないとも考えたりして。
大きなお世話だけど。
 
春樹の作品からは、これまでも人と人がコミットすることについて考えさせられてきたが、今回ほど人間が人間と関わっていくことの意味や希薄さへの危機感を切実に感じたことはなかった。
これは警告?
あれだけ性場面の描写が溢れているのに、愛を感じる場面で性は遠い。それが小気味いい。けれど愛から完全に性は切り離されているのかというとそうでなく、愛の後に性が自然発生していく感じ。天吾と青豆の間で。このときだけ性は色彩を帯びるような温かな潤いを放つ。単に手を握るという行為だけでも。
 
話題になった例の国での例の演説もそうだが、最近の春樹はとても熱いのかもしれない。
この物語が祈りのように感じられて扉を閉じたのは私だけだろうか。
そして実は読み終えたとき、私はとても泣いたのだ。
それはこれまでの私の生き方に対する罰かな。
正しく生きている人、月が1つしかない世界に生きている人には、この物語はつまらなく、きっと涙とは無縁なのだろう。
どこがどう良かったの?と聞かれると困るが…ある種の痛みには、とても響く物語なのだと思う。
そしてもしかしたら今ある生にもっと絶望し、哀しい自分に出会ってしまう物語かもしれない。
物語なのだから、いろんな読み方があっていいんだし、きっと感じるものや、感じるところも星の数ほどあるのだろう。
それほど中身はてんこ盛り。
ちなみに私は、天吾が父親の療養所で「猫の町」の物語を朗読する場面が一番好きだった。
この章だけ、少なくとも後3回は読みたい。
 
そうそう、なぜかわからないが、この物語を読みながら
私は時々大江健三郎の小説を思い出した。
そこで感じた共通する何か。
そこで私はどんなメッセージを聞こうとしたのだろう。
まだ読み解けない。
 
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