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オンディーヌの部屋

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06.26.07:21

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  • 06/26/07:21

02.26.18:35

「あるるかん」25出ています 「水盤」6出ました

詩と批評「あるるかん」25号(2009.12)

arurukan25IMG.jpg  ■poem
    森永かず子  種/あれは/蟹とろうそく 
    山本まこと    とぶ/呼ぶ/九つの行による間奏曲
    田中 俊廣   変容するトルソー/白百合考
    久 里  稔  雪の記憶/浸透圧
    有吉 篤夫   オテ山/天日
    本村 俊弘   灰の言葉(Ⅰ)/灰の言葉(Ⅱ)


■essay
有吉篤夫    岩屋峠
田中俊廣    もう一本の水脈を
-高橋陸郎詩集『永遠まで』に添いながら 〈ことばの身体性14〉

 
表紙絵(テンペラ)   山下良夫
題 字          上田清人 



詩と表現「水盤」6号(2010.2)

suiban6IMG.jpg   ◆詩
       福間 明子     旅に出ます/消失点
       森永かず子     ジャックローズのうた/ふれる/漂流
       山本まこと     木について/海辺のラジオ/十月
                                      /夕焼けまで
       平 野  宏     電照菊/平安斎場
                                     /アルベロベッロは気持ちいい

   ◆伝詩

   ◆エッセイ 
    山本まこと    詩と妹 -失われた季節のために
    福間 明子    宗教画の魅力を学ぶ
    平 野 宏    「現代詩の前線」という場所


   表紙画  平野宏






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01.03.17:35

朝吹真理子「流跡」

朝吹真理子の小説「流跡」(『新潮』2009.10月号)を昨日読んだ。
朝吹真理子は詩人の朝吹亮二氏の娘さん。
イメージ力が豊か。
何より思ったのは亮二詩と同じ遺伝子。
これは詩だ。

01.02.18:30

謹んで初春のお慶びを申し上げます

気がつけば2010年。
すっかり管理人不在ですみません。
いつものことですが…。
実はmixiのボイスに書き散らすようになって、ますますこちらが手薄になりました。
映画もたくさん観て、その感想などこちらにもと思っていたのに…。 

昨年も年が明け、しばらくして見知らぬ方がブログで拙作「朝の祝祭」をご紹介下さっていることを知りました。
さらに一昨年に至っては、神戸の朗読ボランティアから箏の演奏(佐藤敏直作曲)、『片足鳥居の映像』に合わせ拙作「片足鳥居」の朗読許可をとHPを通じご連絡頂いていたのですが気づかず放置。
随分たってからお返事を差し上げた失礼も…。にもかかわらず、貴重な録音を御恵送下さいました。ごめんなさい。
ここ数年、怠惰と多忙の合戦に阻まれ地に伏して茫洋と過ごしてまいりました。
今年はもう少し頑張れよ自分という感じで鞭打ってみたいかなと思います。
こんな体たらくでもよろしければ、今年も変わらぬご厚情をよろしくお願いいたします。

末筆になりましたが、
謹んで初春のお慶びを申し上げ、皆様のご健康とご多幸、
世界の平和を心より祈念いたします。



                                     虎の子を追ったわけでもないが
                                                          この闇を進んできたのには
                                                          なにがしかの算段があったはず
                                                          そう自らも問い続けて
                                                           前へ前へと押し出されてきた
                                                           だがこの穴はどうにも暗く寒い
                                                           弱い者ほど阻まれる
                                                           虎の子は虎に
                                                           人は人の子に
                                                           風穴も差し込む光も見あたらなければ
                                                           そばにある温もりが灯火
                                                            肉を裂く牙でなく
                                                            手から手へ種火を守ろう
                                                            自らの内に祈りと闘いと
                                                            闇を越える朝を夢み
                                                            獣を払い慈しみを知る
                                                            きっと声は闇にも響くだろう
                                                            いまこの生まれたての時間に
                                                            あなたがとても大切です

                                                                                      森永かず子





07.12.10:30

村上春樹「1Q84」

読み始めて、微かな違和を覚えた。
「春樹、どうしちゃったの?」と…。
様々に言われているように、私も性にまつわる描写の多さにいささか辟易。うんざり。
ただそれはいつもどおり、いやいつも以上にドライ。
官能からは遠い。
まるで試験前に保健体育の教科書を幾度も幾度も読まされているような感覚、あるいは人体模型を詳細に眺め、たどるような。
出てくれば出てくるほど乾いていく。
砂漠の砂のように。
エロスは書かれない。
卑猥とか淫らとか描写のシチュエーションとは逆に、そういうものは全く浮かび上がらない。
そのザラザラ感が、性はもういいからという「うんざり」に繋がっていく。
 
これは、いったいどんな物語?
人間の孤独とか不毛になっていく性とかトラウマや記憶というものや…
「?」を抱きつつ読んでいたのだけど、
最終章に近づくにつれ、そして読み終えたとき、スコンと実に単純で簡単だが
「ああ、これは愛の物語だったのね」とすーっと納まるものがあった。
自然に。
ひとりの人間が存在していく意味にとって愛の持つ力の威力・作用というものを改めて強く感じて。
その愛は、もちろん男女間の愛情に留まらないものだが。理解とか許しとか、そういうものまで広げたものも含めて。
少々くどかったり、盛りすぎという手触りも時々あって、春樹どうしたんだろう…という、もどかしいような違和は終始感じ続けたのだが、もしかしたら春樹は、いつになく熱かったのかもしれない。
とても言いたいことが強くあって、それこそクールで覚めた春樹節を維持できていないのではないか。
何となくこれまでは口にされることのなかった、文壇における春樹自身の私的な感じ方や在り方のようなものもにじみでているようで。
春樹はそういうことが言える位置に現在あることを自分に認めさせることがやっとできたのかもしれないし、それはひとつの自信かもしれない。
もしかしたら春樹自身、何らかのこだわりから解き放たれたのかもしれないとも考えたりして。
大きなお世話だけど。
 
春樹の作品からは、これまでも人と人がコミットすることについて考えさせられてきたが、今回ほど人間が人間と関わっていくことの意味や希薄さへの危機感を切実に感じたことはなかった。
これは警告?
あれだけ性場面の描写が溢れているのに、愛を感じる場面で性は遠い。それが小気味いい。けれど愛から完全に性は切り離されているのかというとそうでなく、愛の後に性が自然発生していく感じ。天吾と青豆の間で。このときだけ性は色彩を帯びるような温かな潤いを放つ。単に手を握るという行為だけでも。
 
話題になった例の国での例の演説もそうだが、最近の春樹はとても熱いのかもしれない。
この物語が祈りのように感じられて扉を閉じたのは私だけだろうか。
そして実は読み終えたとき、私はとても泣いたのだ。
それはこれまでの私の生き方に対する罰かな。
正しく生きている人、月が1つしかない世界に生きている人には、この物語はつまらなく、きっと涙とは無縁なのだろう。
どこがどう良かったの?と聞かれると困るが…ある種の痛みには、とても響く物語なのだと思う。
そしてもしかしたら今ある生にもっと絶望し、哀しい自分に出会ってしまう物語かもしれない。
物語なのだから、いろんな読み方があっていいんだし、きっと感じるものや、感じるところも星の数ほどあるのだろう。
それほど中身はてんこ盛り。
ちなみに私は、天吾が父親の療養所で「猫の町」の物語を朗読する場面が一番好きだった。
この章だけ、少なくとも後3回は読みたい。
 
そうそう、なぜかわからないが、この物語を読みながら
私は時々大江健三郎の小説を思い出した。
そこで感じた共通する何か。
そこで私はどんなメッセージを聞こうとしたのだろう。
まだ読み解けない。
 

07.06.16:45

批評-井上瑞貴氏のブログから 2

『水盤』5について井上瑞貴氏が御高評下さった。
http://freezing.blog62.fc2.com/blog-entry-612.html

「けなげな春」について
>作品を読もうとすると作者がそれを邪魔する。作品が作者に帰属しているためだ。
>まるでアマチュアみたいに。「言いたいことがあり、言いたいことを言うために詩を借りている」、それがアマチュアの定義だとするなら、森永かず子はアマチュアではない。けっして詩を隷属させるわけでもないし詩に隷属するわけでもない。それなのに詩は、まるで自己嫌悪のように作者に帰属させられている。まるで自己嫌悪のように作者は詩を手放さない。

たぶん…私は詩を書くために詩は書けないんじゃないか。
そういう書き方を私が詩ともいえないような何かを書き始めた、あの幼い頃から既にしてこなかったし、それではいけないよと教えてくれる人もいなかった。
私は私のためだけに書いてきた?
踊るのも、眺めるのも私。
でも私個人にのみ関わる、未処理のレアな言葉を作品に持ち込むことはなかったし、作品のなかに無防備な素肌の私は決してさらさない。
そうしたものはどこかで嫌悪している。
ひどいのは、嫉妬深い残酷な男のように、女を押し込めておきながら感心を全くもたず放置し、忘れる。
あるいは自らが生み出した子供であるのに、その我が子をどうしても愛せない母親のよう。

>しかし森永かず子は真を語ろうとしているわけではない。「真実こそが愛である」という命題への嫌悪が語られている。

どうして、わかるのだろう。
この作品は「嫌悪」、それが始まり。

>なぜ嫌悪があるのか。それを求めているからである。

もう、びっくりする。
ここまで脱がせるのはルール違反ではなかろうか!と、私は井上氏に抗議したい。
見ないふりしてくれてもいいじゃないか。

>彼女は自分にナルシシズムを許さない。その不許可を私はどうすることもできない(愛することしかできない)し、私の手を離れ、その「孤独の暗さ」へと作品は回収されてゆくしかない。

近頃、私は私にもう少し優しくあろうと言い聞かせてもいるのだけど。
でも確かにナルシズムに陥ってはいないか、詩を推敲しながら恐れているのはそこ。
支度を調え、鏡でチェックするストッキングの伝線、口紅のはみ出しのようにナルシズムは、チェックされてきた。
それが本当は弱点?
弱みも隙も見せてはいけない。ましてや作品が媚びたり、憐れみを受けるのは耐えられない恥辱?

ずっとずっと鳴り響いている。
その「孤独の暗さ」へと作品は回収されてゆくしかない
     その「孤独の暗さ」へと作品は回収されてゆくしかない
          その「孤独の暗さ」へと作品は回収されてゆくしかない
              その「孤独の暗さ」へと作品は回収されてゆくしかない

    その「孤独の暗さ」へと私は回収されてゆくしかない…

それにしても、井上さん、いじわるだ。